レディスファッションの革命!「CHANEL(シャネル)」について
レディスファッションの革命!「CHANEL(シャネル)」
お世話になっております。毎年師走はバタバタします。
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おなか用カイロは低めの温度の40℃なのでじんわり暖かくてお勧めです。
腰痛がある方も冬は効果的かもしれませんので試してみてはいかがですか?
さて、今回のお題は前回の続編としまして
「レディスファッションの革命!シャネルについて」のお話しをしていこうと思います。
目次
シャネルの誕生
ガブリエル・ボヌール・シャネルが1910年にパリで、「シャネル・モード」という名の帽子のアトリエを開業。
1915年、ジャージー素材を使用したドレスが話題となったコレクションを発表。一躍パリで注目を集めました。
第2次世界大戦後、パリに戻った翌年に「シャネル・スーツ」を発表。名誉あるモード・オスカー賞を受賞。
窮屈なコルセットから解放された仕立てや、当時喪服として使用され、タブーとされていた黒い服を「リトル・ブラック・ドレス」として生み出すなどファッションの歴史を大きく変えました。
シャネルは他のブランドと違い、もともと王室御用達などではなく、孤児から一代で高級ブランドとしての地位を築き上げました。
ココ・シャネルの生い立ち
20世紀を代表する女性デザイナー、ココ・シャネルは1883年、フランスのオーベルニュー地方に誕生しました。
本名は、ガブリエル・ボヌール・シャネル。幼少時代に母親が他界し、孤児院や修道院などで育ちました。
孤児院を出た後、お針子の仕事に就いたが芸能界に憧れる気持ちが強く、一時は歌手を志しました。
舞台への挑戦から、「ココシャネル」の名前が誕生しました。彼女の仕事はスターたちが舞台で入れ替わる幕間の場を繋ぐパフォーマー、通称「ポーズ嬢」でした。
給料は出なかったため、その収入源はテーブルを周ってチップを集めることでした。
彼女が「ココ」という名前を得たのはこの頃で、夜にこのキャバレーで歌う時、しばしば歌った歌が「ココを見たのは誰?(Qui qu’a vu Coco ?)」でした。
ポーズ嬢としてのココは売れっ子でしたが、田舎の舞台での脇役は彼女を満足させるものではなく、都会のより本格的な舞台の上で活躍することを目指すようになっていきました。
しかし、「ポーズ嬢」という職業は時代遅れの田舎習慣であり、都会の時代の流れに沿うことはできず、自分の将来において舞台での成功が見込めないことを認識しました。
ココ・シャネルがファッションの世界に入ったきっかけは?
当時交際していた資産家の将校エチエンヌ・バルサンがきっかけでした。
バルサンは兵役後に両親の遺産を受け継ぎ多大な資産を抱えていました。
シャネルが23歳の頃、彼は遺産を使ってコンピエーニュ近郊ロワイヤリューのシャトーを購入し、そこで競走馬の育成を始めました。
シャネルはバルサンの愛人となってロワイヤリューで生活を始めました。そこでの生活は自堕落なもので
バルサンの富によって盛大なパーティーでの歓楽、美食に溺れることが可能となりました。
バルサンはシャネルに”卑小”な「豊かな生活」―ダイヤモンド、ドレス、そして真珠―を浴びせかけました。
1909年、シャネルはバルサンの友人の一人、ボーイ・カペルと関係を持ち始めました。
カペルは富裕なイギリスの上流階級で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせ、彼女の最初の店舗の出店費用も提供しました。
パリのカンボン通り21番地に帽子専門店「シャネル・モード」を開店
バルサンと暮らしている間、シャネルは主にバルサンの家に出入りする女性たちのために帽子をデザインしていました。当初これは暇つぶしのようなものであり、また当時の帽子デザインの標準と比較して極めてシンプルなシャネルのデザインは一種のアート表現であるように捉えられました。
そのため、シャネルがデザインした帽子はむしろ話の種として女友達を不思議がらせたりするために作られたものでした。しかし、シャネルが生活を変えて再び芸能人としての道を目指したいと言い出した時、その道での成功はないと考えたバルサンが代わりに帽子作りをすることを提案し、
カペルの説得も受けた彼女はこれに同意しました。
1910年に婦人用帽子職人のライセンスを取得し、ヴァンドーム広場に近いパリで最もファッショナブルな地区のカンボン通り21番地にブティック「シャネル・モード(Chanel Modes)」を開店しました。
フランス南西部ビアリッツに「メゾン・ド・クチュール」をオープン
1914年、第一次世界大戦が勃発。翌年、「メゾン・ド・クチュール」をオープン
シャネルはボーイ・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し、レジャーやスポーツに適した豪華でカジュアルな服装を打ち出しました。
シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージーのような安手の生地で作られていました。
ブティックの立地は最高であり、ドーヴィルの中心にあるファッショナブルな通りにあり、
ここでシャネルは帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスのマリニエール(marinière)を販売しました。
21年、パリのカンボン通りの店を31番地に拡張し、現代的なブティックを目指す彼女は、ベストセラーとなる香水「No.5」を発表します。
香水のほか、衣服や帽子に合ったアクセサリーを、次いでジュエリーや化粧品なども販売するようになりました。
敷地もさらに拡大し、1927年までに、カンボン通り23番地から31番地までの一画に相当する5件の不動産を保有しました。
また、この頃ミシア・セールという人物が主宰するサロンを通じて、ジャン・コクトー、パブロ・ピカソ、イーゴリ・ストラヴィンスキーら芸術家との交流を持ちます。
従業員のストライキ勃発とシャネル
その後、ビジネスは順調に成長していましたが、1936年にフランス全土で発生した大規模なゼネストが影響を及ぼし一部店舗を残してビジネスを閉鎖しました。
シャネルのクチュールで働く従業員・お針子たちもまた、有給休暇や週給制の実施、労働時間の短縮などを求めてストライキに突入し、シャネルは自分の店から追い出されたというエピソードもあります。
第二次世界大戦
1939年、第二次世界大戦が始まると、シャネルは突如、ブティックだけを残してカンボン通り31番地の作業場(アトリエ)を閉め、お針子全員を解雇しました。
彼女自身は「戦争のせいで仕事をやめた」と語っており、この判断は戦時中に服を買うような人々の存在が想像もできなかったからだとしています。
この行動は強い批判を浴び、経営者組合は考え直すように説得を行ったが、シャネルは断固として再開を拒否しました。
ドイツが1940年にフランスを占領すると、シャネルはドイツ軍人たちが好んで居住先に選んだホテル・リッツに住みました。
この頃にシャネルはパリ駐在のドイツ外交官・諜報員のハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲと交際していたことが知られており、
彼女のアパルトマンを徴発しないという保証をドイツ側から得ていたといわれています。
シャネルの最期
1971年、自宅にしていたホテル・リッツにて死去。
ココ・シャネルの名言「ファッションは色あせるが、スタイルはいつまでも変わらない」の通り、
彼女が考案したリトル・ブラックドレスやコスチュームジュエリー、カフス使いなどは、今でも度々引用されています。
多くの恋と、富で培ったファッションセンスを生かしてビジネスを成功させたココシャネル。
その恋愛の裏で孤独との葛藤が、彼女を動かしていたのかもしれませんね。
今回はシャネルの生い立ちについてでしたが、
実際ココシャネルが現役だった頃に展開していたものというのはクチュールや化粧品、香水、イミテーションパールのアクセサリーを中心に女性が身に着けるものでした。
写真にあるマトラッセの生い立ちはハンドバッグから来ています。
ハンドバッグは、バッグを持っているため両手が自由に使えない、どこかにハンドバックを置いてしまい、そのまま忘れてしまう人が多いというデメリットがありました。
当時同じ悩みを持っていたココシャネルが、革紐をつけて肩に掛けて使う簡単な作りの女性用のショルダーバッグを製作し、広めたといわれています。
前回はヴィトンで今回はシャネルの生い立ちを記事にしましたが
メーカーにより全くエピソードが異なるので、背景を知ることで先人の知恵を学べますね。
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