中古時計専門店|カメラのキタムラでブランド腕時計を販売中

ヴィトンはどこから来た?|LOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)の歴史に迫る

アイキャッチ

LOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)はどこから来た?

お世話になっております。アイスコーヒーからホットコーヒーに替える季節となりました
スタバのクリスマスブレンドを毎年楽しみにしている、査定士Wです。
仕事中のコーヒーはだいたいペットボトルかスティックタイプですが、出張にて地方で寄ったスタバで、「イタリアンロースト」のコーヒー豆の挽きたてをサンプルで頂き、酸化しないうちに飲まないとな、と思いドリッパーセットを引っ張り出しました。アイスで「イタリアンロースト」を飲むと、ほろ苦さにメリハリがついてすっきりとした味わいですが、ホットだと深煎りのほろ苦さがじんわりと広がるので冬の訪れにマッチする風味でした。(とはいえ、自宅ではたっぷり日の光が入ると室温が28℃となるのでまだまだ半そでの出番が多いです)
天気のいい日は、コーヒー片手にお散歩したくなりますね。

さて、今回のお題は「ヴィトンはどこから来た?」です
ええ、フランスですよ?そんなツッコミを頂きそうですが、今回はルイ・ヴィトンがもつエピソードについて
お話ししたいと思います。ルイ・ヴィトンは元々トランクメーカーなのは皆さまご存じですよね?創始者であるルイは、ルイ・ヴィトンの創業するまでに20年間トランク製造と荷造りの職人として腕を磨いていたため、フランス王室から注文を受けるほどの一流の職人として名が知れた存在でした。

そのため、満を持した形で1894年の旅行用トランク専門アトリエをオープンしており、このアトリエがルイ・ヴィトンの前身となっています。

ルイ・ヴィトンのコンセプト

すなわち「旅」です。このコンセプトは、創始者のルイが旅行用トランク専門のアトリエを創業した1894年頃、
移動手段が馬車から鉄道で移行する時代であり、積み重ねやすい蓋が平らなトランクの需要がより高まっていたことも関係しています。また、創業者のルイ・ヴィトンもまた、パリを目指して徒歩での「旅」を始め
2年の歳月をかけてたどりついた彼がパリで雇われたのは、荷造り用木箱製造職人兼荷造り職人の店。
ここでルイは腕を磨き、フランス随一の職人へと成長していきます。

ルイ・ヴィトンのトランク

前述を少し掘り下げます。国内外の多くの顧客に支持されて1859年にはパリ郊外のアニエールに工房を設立。
それまでの「蓋の丸いトランク」から一転、ルイ・ヴィトンは、1876年にクローゼットをそのまま持ち運ぶことができる「ワードローブ・トランク」を発表しました。
豪華客船での旅のニーズに応えたことで、名声はますます高まりました。革より軽い無地のコットン素材を使用し、更にそれに防水加工を施した「グリ・トリアノン・キャンバス」を開発。

当時の一般的なトランクに比べ、ルイ・ヴィトンのトランクは軽くて丈夫でした。
さらには、トレーや仕切りまで設置され、使いやすさをとことん追求したものだったのです。
こうして「ルイ・ヴィトンのトランク」が誕生すると、当時のセレブたちの間で一躍評判になりました。
その「豪華客船」についてルイ・ヴィトンの公式サイトや、記録には残っていない伝説があります。
当時ヨーロッパとアメリカなど、遠距離の旅行はもちろんすべて船。そこで、ルイ・ヴィトンは、完全防水のトランクを開発、万が一の事故に備えたのです。1912年、あのタイタニック号の事故の際、ルイ・ヴィトンのトランクにつかまり命が助かった人もいたと言われています。

さらに、沈没から数十年後、タイタニック号の船室から遺品が引き上げられたとき
ルイ・ヴィトンのトランクの中身は水にぬれず、当時のままの姿で残っていた・・・
そんな逸話が語り継がれています。

偽物を防ぐために

いつの世も製品に人気が出ると現れるのが偽物です。偽造を防ぐ手段として考案したのがトランクの表面をオリジナルの柄で覆うことでした。1888年に満を持して市松模様にブランド名をあしらった「ダミエ・キャンバス」を発表します。それは、後に息子のジョルジュが生み出す「モノグラム」への道を拓きます。

ルイ・ヴィトン

まだ知的財産権などという意識は誰も持っていなかった時代、
「ダミエ・キャンバス」の商標を登録することで、ルイ・ヴィトンは“デザインの価値”を世に問う先駆けとなりました。その「ダミエ・キャンバス」が生まれるきっかけとなったのは「日本の市松模様」でした。
実は「ダミエ・キャンバス」がいちばん古い柄なのですね。

ジャポニズムとの出会い

先ほど「ダミエ・キャンバス」の説明で市松模様が誕生のきっかけと記しましたが、そもそも市松模様との運命の出会いはどこに落ちていたんでしょうか?それは、1878年にパリで開催された万国博覧会でした。会場内には電車が走り、セーヌ川から汲み上げた水によって4つの噴水が造られました。
この水は、機械館の床に通してクーラーとしても使われており、これだけ聞くと、当時のセーヌ川の水はとても冷たくて気持ちよかったのではないかと想像してしまいますね。

また、自然の地形を生かした水族館や植民地パビリオンもあり、アメリカのパビリオンには、ウィルソン(A. Wilson)やシンガー社などのミシンが展示していました。また、エジソンは音声を電気信号に変えるマイクロフォンや蓄音機を披露しました。そして、ニューヨークに送られた「自由の女神」の頭部が建設され、毎日、何百人もの見物人が、自由の女神の頭部に登るために列を成したのです。
そして日本もシャン・ド・マルスに日本館を建て、トロカデロ会場にも、古物館への出品の他、茶室や日本庭園を持つ日本式家屋を建てて参加しました。実はこのジャポニズム、フランス文化に与えた影響は大きく、芝居やバレエはもちろんのこと、当時活躍していた画家ゴッホ、セザンヌ、ルノワール、モネなどはみな浮世絵などの日本文化の影響を強く受けたのです。パリでの日本ブームはここからだったのです!

ジャポニズム第二作は「モノグラム・キャンバス」

フランスでジャポニズムがかなりの盛り上がりを見せていた当時、2代目を継いだ、ジョルジュ・ヴィトンは新作を発表しました。それが「モノグラム・キャンバス」。ルイ・ヴィトンのデザインを代表するといっても過言ではないこの柄は、様々な文化の中でも、特に日本のある文化の影響を強く受けていると言われています。
それはすなわち、「家紋」。1867年に開催されたパリ万国博覧会には徳川家とともに薩摩藩が参加しており、その際、島津家の家紋の入った品を日本の出展品として展示していました。「家紋」との出会いはこの1867年に開催されたパリ万博で運命の出会いを果たしていたことになります。
また、この年に日本が初めて正式に参加したと記録があります。日本の渋い家紋がこんなかわいい花柄に!

ルイ・ヴィトン

今回はヴィトンの誕生や何世代も続くモノグラムとダミエの柄についてのお話しをしました!
バッグの種類や、他のラインの話はまたの機会に!
今回はここまで!それではまた!

もちろんLOUIS VUITTON(ルイ・ヴィトン)時計も高価買取に挑戦中!

「タンブール」の発表と共に、時計市場の世界に足を踏み入れたルイ・ヴィトン。
オリジナリティあふれたデザインや、満足のいく機能性をもちろん、ルイ・ヴィトンが独自開発した「スピンタイム」などの機構が特徴です。スピンタイムは、文字盤のインデックス部分が回転式になっており、時針が90°回転して色がかわることにより時間を示すよう設計されている機構です。
カメラのキタムラでは販売のほかに、買取・査定も行っております!ぜひお申し込みお待ちしております。

▼例)ルイ・ヴィトン タンブール ブラウン QA070 ステンレススティール
ルイ・ヴィトン

キタムラでは高価買取実施中!

キタムラでは腕時計を中心に高価買取に挑戦中です。見積のみも大歓迎。
是非お近くの店舗にご相談ください。

この記事を書いたのは…

査定士W

お客様の声が見えない分、店舗スタッフと連携を取って査定を行います!私たちの査定に対する熱意がお店のスタッフを通じてお客様に伝わるようにスピーディに、かつ丁寧に対応していきます。

関連記事

view more
TOPに戻る
TOPに戻る